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南北戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

南北戦争

左上: ストーンズ川でのローズクランステネシー州; 右上: ゲティスバーグでの連合国軍(南軍)の捕虜; 下: ハインドマン砦の戦いアーカンソー州
戦争
年月日1861年4月12日1865年4月9日
場所:主にアメリカ合衆国南部
結果:北部の勝利、レコンストラクション奴隷開放
交戦勢力

アメリカ合衆国

アメリカ連合国

指揮官
エイブラハム・リンカーン
ユリシーズ・グラント
ジェファーソン・デイヴィス
ロバート・E・リー
戦力
220万0,000 106万4,000
損害
戦死 11万0,000
戦病死 36万0,000
戦傷 27万5,200
戦死 9万3,000
戦病死 25万8,000
戦傷 13万7,000以上
青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。
青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。

南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War, 1861年-1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部(23州)との間で戦争となった。

なお英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので、通常はこれに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する。

目次

[編集] 背景

詳細は南北戦争の原因を参照

当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を望んでいた。

それに比べ、北部では米英戦争(1812~14年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制に対する態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州と南部の奴隷州の対立が一層激化した。しかもこの対立はアメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。

それは財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナテリトリーを購入した事とメキシコから「独立」したテキサスとカルフォニアをアメリカ合衆国に加えた事によって[1]今までなんとか上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が破られる事となってしまったのだ。

そこで、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ、ユタについては州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。

この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること(すなわち上院議員の数が自由州側の方が多くなる)に危機感を抱いた。ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2千2百万、南部の人口は約9百万だったとされる。しかし南部のこの人口は約4百万もいた奴隷の人口を含めての数字である。

[編集] 経過

[編集] 開戦

1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党エイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった[2]

1860年12月にはサウスカロライナ州が早くも連邦からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州フロリダ州アラバマ州ジョージア州ルイジアナ州テキサス州も連邦からの脱退を宣言した。2月4日には7州で参加したアメリカ連合国を設立。ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。

3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。5月までにバージニア州アーカンソー州テネシー州ノースカロライナ州が連合国に合流した。ただし奴隷州でもデラウェア州ケンタッキー州メリーランド州ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応にリンカーン大統領は非常に苦慮する事となる[3]

4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸からメキシコ湾岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。経済学者によっては、海上封鎖アメリカ海軍の勝利であり、戦争そのもに勝利する主要要因となったとしている[4]

[編集] 開戦時の状況

南北戦争が勃発(ぼっぱつ)した時点では北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官の内313名が職を辞して南部連合軍に加わってしまった。この中には後に南軍の将軍として有名になるロバート・E・リーストーンウォール・ジャクソンジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった[5]。また、合衆国海軍も将兵7,600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。しかしそれに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。

開戦時に北部が優位であった点:

  • 開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組織を作り上げねばならなかった。
  • 南部と比較して中央集権的な政治体制であったため、連邦政府の意思決定がスムーズであった。南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、南部連合の方針を決める際にディヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。
  • 上記のように北部と南部の間には大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は18歳から35歳とされていた)とされる男性の人口も大きな差があった。北部のそれは約400万前後だったのに対し、南部の兵役適齢者は100万強だった。南部では後にこの枠が17歳から45歳までに拡大され、最終的に上限は50歳まで引き上げられた。しかしそれでも兵の成り手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案まで提出された。
  • 北部では上記のように工業面が南部より発達していた。鉄道の長さは南部の2倍以上あった。この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵たちに受け渡すことができた。

開戦時に南部が優位であった点:

  • 人的資源の量では劣っていたが、多くの優秀な指揮官が合衆国軍を去って南部連合に合流した。そのため北部では将軍に任命するに足る人物が不足することとなった。
  • 奴隷制を維持し「南部の生き方」を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かった。一方で北部の目標は「合衆国を守る(=南部を連邦に連れ戻す)」という曖昧(あいまい)なものであり、南部と比較して戦争に対する温度差も大きかった。

[編集] 東部戦線

詳細は東部戦線 (南北戦争)を参照

当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。しかし1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い, 7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫(とんざ)させられ、戦争の長期化は避けられない情勢となった。

1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。しかし七日間の戦い(6月25日-7月1日)で、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍に大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。連動してジョン・ポープ率いるバージニア軍[6]もバージニアへ侵攻するが、第二次ブルランの戦い(8月28日-8月30日)でリーに敗北した。戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い(9月17日)の結果、後退を強いられた。

戦局がもちなおしたのを見た大統領リンカーンは1862年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌年1月)。このころからリンカーンは奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。

1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、ゲティスバーグの戦い(7月1日-7月3日)の末、再び後退を強いられた。この戦いでの戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行った演説がゲティスバーグ演説として知られる有名な演説である。

[編集] 西部戦線

詳細は西部戦線 (南北戦争)を参照

西部戦線では北軍が優勢に戦いを進めた。北軍はミシシッピ川沿いに南下し、1862年5月18日には南部最大の都市ニューオーリンズを陥落させた。南軍のケンタッキー州侵攻作戦はペリービルの戦い(10月8日)とストーンズリバーの戦い(12月31日-1863年1月2日)によって失敗した。

西部戦線で重要な役割を果たしたのがテネシー軍を率いた北軍のユリシーズ・グラントであった。グラントはヴィックスバーグの戦い(5月18日-7月4日)で同要塞を攻略してミシシッピ川の支配権を確保し、チャタヌーガの戦い(11月23日-11月25日)の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。

[編集] 戦争の終結

1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。南軍の一部隊はこの夏には連邦首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。またグラントは今までの将軍とは違い会戦で敗北しても引き上げるような事はせず、そのまま敵地にとどまって北バージニア軍と戦い続けた。さらに、西部からはウィリアム・シャーマンが大西洋に向かって海への進軍を開始し、9月にはアトランタを陥落させた。

1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落した。9日にはリーが降伏し、南北戦争は事実上終了した。

お互いにあらゆる国力を投入したことからこの南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつだった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人[7]に達した。両軍合わせて62万人の死者を出し、国土を荒廃させることとなった。

[編集] 戦後

詳細はレコンストラクションを参照

「奴隷解放宣言」により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。しかし南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。

[編集] 南北戦争の意味

南北戦争については次のような対立軸が考えられる。

  • 奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
  • 保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部

このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と原料供給地としての農業経済を継続したい南部が一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。

なお、当初北部はまともな戦い方で戦争で南部に勝てるはずがないと見込んでいた。接近戦となると武器に優れ、強靭な肉体を持つ黒人奴隷と戦うことを想定すると勝てる見込みはないとしていたのである。そこで北部はしきりに奴隷解放を謳い上げ、黒人の戦争の不参加を促すことに成功した。

南部は独立を求めた。その理由は、奴隷制の維持である。独立しないと、奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を恐れた北部は、強い主権国家を標榜しており、南部の独立は認めがたかった。また、当時のアラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。合衆国としての強い基盤を築くためには独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。

結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。

[編集] 南北戦争を題材とした作品

[編集] 小説

[編集] 映画

[編集] テレビドラマ

[編集] テレビアニメ

[編集] ゲーム

  • コマンドマガジン日本版第29号「ゲティスバーグの戦い」国際通信社
  • コマンドマガジン日本版第59号「アンティータム会戦」国際通信社
  • 「ハウス・デバイデッド(A House Divided)」GDW社/1981年 ファランクスゲームズ
  • 「大戦略南北戦争(The Civil War)」Victory Games社/ホビージャパン社/1983年
  • 「ノース&サウス わくわく南北戦争」(ファミリーコンピューター)コトブキシステム/1990年
  • 「The War for the Union」Clash Of Arms社/1992年
  • 独立戦争 Liberty or Death」光栄(現コーエー)/1993年9月27日
  • 「For the People」AvalonHill社/1998年

[編集] 音楽

[編集] 脚注

  1. ^ 米墨戦争の結果アメリカ合衆国はメキシコ割譲地と呼ばれる広大な領土を収得した。
  2. ^ リンカーンは新たに合衆国に加わる州に奴隷制を広めるのに反対だったため、南部は徐々に自由州が増えて議会でのバランスが崩れる事によって最終的に奴隷制が廃止される事を怖れたのだろう。
  3. ^ 合衆国の首都であるワシントンD.C.はちょうどバージニア州とメリーランド州の間にあるため、メリーランド州が南部連合国に加わった場合は首都が北部州から完全に切り離される危険性があった。
  4. ^ Elekund, R.B., Jackson J.D., and Thornton M., "The 'Unintended Consequences' of Confederate Trade Legislation." Eastern Economic Journal, Spring 2004
  5. ^ 北部に残った士官より南部に去った士官たちの方が全体的に質が高かったと言われている。
  6. ^ 軍の名称としては南軍の北バージニア軍と大変似ていて紛らわしいのでこの戦いの後に廃止されている。ただしさらに紛らわしいテネシー軍の呼称はなぜか両軍で使われ続けた。ちなみに英語で書いた場合北部のはArmy of the Tennesseeで南部のはArmy of Tennesseeとなる。北部のテネシー軍はテネシー川にちなんで名づけられており、正確に言えばテネシー川(流域)軍となる。南軍の場合はテネシー州にちなんだネーミングになっており、正確にはテネシー州(の)軍、となる。
  7. ^ 上記のように南部で徴兵適齢期に達していた市民は約100万人だった。つまり南部は動員可能な兵力をほとんど全て徴集したと言う事が分かる。

[編集] 参考文献

  • 『南北戦争 49の作戦図で読む詳細戦記』クレイグ・L・シモンズ(友清理士訳) 学研M文庫
  • 『アメリカの戦争』猿谷要編 1985年 講談社
  • 『アメリカの歴史3 ~1837-1865~』モリソン 集英社ISBNコード 4087603164
  • 『合衆国の歴史:第6巻/南北戦争』時事通信社(1966)/ライフ編集部
  • 『エブラハム・リンカーン』(全3巻)新潮社(1972)/カール・サンドバーグ著
  • 『愛国の血糊(Patriotic Gore)』研究社出版(1998)/エドマンド・ウィルソン著
  • 『戦場の歴史:コンピュータマップによる戦後の研究』河出書房新社(1986)/ジョン・マクドナルド著
  • 『自由への扉-南北戦争の前線からの一黒人兵士の書簡集』丸善/ジェームズ・ヘンリー・グッディング著
  • 『世界の都市の物語15:アトランタ』文藝春秋(1996)/猿谷要著
  • 『アメリカの黒人奴隷制度と南北戦争』(アメリカ史研究のI)/未来社(1954)/菊池謙一著
  • 『アトラス現代史2:アメリカ合衆国』創元社(1990)/ブライアン・キャッチポール著
  • 『機関銃の社会史』平凡社(1993)/ジョン・エリス著 -(同書より引用)南北戦争があれだけ総力戦的な特徴を備えていたのは、アメリカの常備軍が非常に小さく、戦争はこうあるべきだという固定観念に縛られた軍人が殆どいなかった為である。兵士も一般人も、いわば軍事的真空状態におかれていたので、戦果を挙げるために、どんな種類の技術でも役に立ちさえすれば全て受入れる用意があった。そのため南北戦争で初めて近代的軍事品目の主要な顔ぶれが全て出揃う。機関銃、旋条火器類、後装式銃、弾倉式の連発銃、そして地雷、野戦電信機、蒸気駆動の甲鉄艦、さらには潜水艦の祖形のようなものまで現われた。また初めて兵士の移動に鉄道が大規模に用いられ、大量生産技術によって食糧、軍服、装備類が兵士達に支給された。しかし戦争の性質に対するこのような偏見のない態度は、欧州諸国内ではまず存在しなかった」
  • 『7日戦闘/ヴィックスバーグの攻囲及びチャタヌーガの戦い』海上自衛隊幹部学校刊(1972)/J.F.C.フラー著

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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