前漢
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前漢(ぜんかん 紀元前206年 - 8年)は中国の王朝。秦滅亡後の楚漢戦争にて項羽との争いに勝利した劉邦によって建てられた。長安を都とした。7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡、その後漢朝の皇族であった劉秀により再興される。前漢に対しこちら後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢を東漢と称されることが一般的である。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を合わせて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。
漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものをさす言葉になった。
文中の単位については以下のとおり。距離・1里=30歩=1800尺=498m 面積・1畝=1/100頃=6.61a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖=258.24g 容積・1斛=34.3l。
目次 |
[編集] 歴史
[編集] 建国
戦国時代を統一した秦の始皇帝は皇帝概念・郡県制などその後の漢帝国及び中国歴代王朝の基礎となる様々な政策を打ち出した。しかしその死後、二世皇帝が即位すると宦官の趙高の専横を許し、また阿房宮などの造営費用と労働力を民衆に求めたために民衆の負担が増大、その不満は全国に蔓延していった。
紀元前209年に河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した。陳勝自身は秦の討伐軍に敗北し、敗走中に部下に殺害されたが、反秦勢力は旧楚の名族である項梁に継承され、項梁の死後はその甥の項羽が反秦軍を率いて反秦活動を行った。漢の創始者である劉邦はその部下として秦の首都であった咸陽を陥落、秦を滅亡させた。その後は西楚の覇王を名乗る項羽と、その項羽から漢中に封建されて漢王となった劉邦との間での権力抗争が発生した。(楚漢戦争)
当初は軍事力が優勢であった項羽により劉邦はたびたび敗北したが、投降した兵士を虐殺するなどの悪行が目立った項羽に対し、劉邦は陣中においては張良の意見を重視し、自らの根拠地である関中には旗揚げ当時からの部下である蕭何を置いて民衆の慰撫に努めさせ、関中からの物資・兵力の補充により敗北後の勢力回復を行い、更に将軍・韓信を派遣し、華北の広い地帯を征服することに成功する。これらにより徐々に勢力を積み上げていった劉邦は紀元前202年の垓下の戦いにて項羽を打ち破り、中国全土を統一した。
劉邦は諸将に推戴され皇帝に即位する(高祖)。高祖は蕭何・韓信らの功臣たちを諸侯王・列侯に封じ、新たに長安城を造営、秦制を基にした官制の整備などを行い、国家支配の基を築いていった。しかし高祖は自らの築いた王朝が無事に皇統に継承されるかを考慮し、反対勢力となり得る可能性のある韓信ら功臣の諸侯王を粛清、それに代わって自らの親族を諸侯王に付けることで「劉氏にあらざる者は王足るべからず」という体制を構築した。秦の郡県制に対して、郡県と諸侯国が並立する漢の体制を郡国制と呼ぶ。
[編集] 呂氏の専横
紀元前195年、高祖は崩御。その跡を劉盈(恵帝)が継ぐ。恵帝自身は性格が脆弱であったと伝わり、政治の実権を握ったのは生母で高祖の皇后であった呂后であった。呂后は高祖が生前に恵帝に代わって太子に立てようとしていた劉如意を毒殺、更にその母の戚氏を残忍な方法で殺した。恵帝は母の残忍さにショックを受け酒色に溺れ、若くして崩御してしまう。呂后は少帝恭、少帝弘を相次いで帝位に付けるが、少帝弘は実際には劉氏ではなかったとされる。
呂后は諸侯王となっていた高祖の子たちを粛清、そして自らの親族である呂産らを要職に付け、更にこれらを王位に上らせた。「劉氏にあらざる者は・・・」という皇族重視の国家体制の変質である。呂后は呂氏体制を確立するために奔走したが紀元前180年に死去した。呂后の死去に伴い反呂氏勢力が有力となり、朱虚侯の劉章・丞相の陳平・太尉の周勃らが中心となり呂産を粛清、呂氏一族は殺害され、呂氏の影響力は宮中から一掃された。
[編集] 文景の治
呂氏の粛清後に皇帝として即位したのが代王であった劉恒(文帝)である。
秦滅亡から漢建国までの8年に及ぶ長い内戦状態は国力を激しく疲弊させ、一般民の多くが生業を失った。これに対して文帝は民力の回復に努め、農業を奨励し、田租をそれまでの半分の30分の1税に改め、貧窮した者には国庫を開いて援助し、肉刑を禁じ、その代わりに労働刑を課した。また自ら倹約に取り組み、自らの身の回りを質素にし、官員の数を減らした。
紀元前157年に文帝は崩御。この時に文帝は新しく陵を築かず、金銀を陪葬せず、その喪も3日で明けるように遺言した。その跡を劉啓(景帝)が継ぐ。景帝もまた基本的に文帝と同じ政治姿勢で臨み、民力の回復に努めた。その結果、倉庫は食べきれない食糧が溢れ、銅銭に通した紐が腐ってしまうほどに国庫に積み上げられたと言う[2]。実際の数字からも国力の回復は明らかで、例えば曹参が領地として与えられた平陽は当初は1万6千戸であったのがこの時代には4万戸に達していた[3]。この2人の治世を讃えて文景の治と呼ぶ。
しかし国力の回復と共に、貧富の格差の拡大と諸侯王の勢力の増大とが新たな問題として浮上してきた。
農業生産が増大したことに伴い、商業活動もまた活発化し、商人の経済力も飛躍的に増大した。その財力で農民たちの土地を買い上げ、更に財を積み上げていった。物を生産しないで巨利を得る商人に対して、商業を抑え込んで農業を涵養することを提言したのが文帝期の賈誼であり、景帝期の晁錯であった。文帝の観農政策は賈誼の提言に従ったものである。(#豪族を参照のこと。)
また生産の回復は中央の勢力を増大させたが、それと同時に諸侯王の勢力も増大させた。諸侯国は中央朝廷と同じように官吏を置き、政治も財政も軍事もある程度の自治権が認められ、半独立国の様相を呈していた。これを抑圧することを提言したのが晁錯である。晁錯は諸侯王の過誤を見つけてはこれを口実に領地を没収していき、諸侯王の勢力を削りにかかった。これに対して諸侯王側も反発し、呉王劉濞が中心となって紀元前154年に呉楚七国の乱を起こす。この乱は周亜夫らの活躍により半年で鎮圧される。
これ以後、諸侯王は財政権・官吏任命権などを取り上げられ、諸侯王は領地に応じた収入を受け取るだけの存在になり、封国を支配する存在ではなくなった。これにより郡国制はほぼ郡県制と変わりなくなり、漢の中央集権体制が確立された。
[編集] 全盛
景帝は紀元前141年に崩御し、劉徹(武帝)が即位した。武帝は文景の治で充実した国力を背景に積極的な施策に乗り出す。
内政面においては郷挙里選の法を定め儒者の官僚登用を開始した。また諸侯王の権力を更に弱めるために諸侯王が領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す推恩の令を出した。これにより封国は細分化され、諸侯王勢力の弱体化が一層顕著なものとなった。
外交面では北方の匈奴とは、前200年に高祖が大敗を喫して以来、敵対と和平政策が繰り返されていたが、概ね匈奴が優勢である状況が続いていた。これに対して武帝は前134年に馬邑[4]の土豪であった聶壱の建策を採用、対匈奴戦に着手した。前129年に実施された第一回目の遠征では四人の将軍が派遣され、他の将軍が敗北を喫する中で車騎将軍・衛青は匈奴数百の首を獲得する戦果を挙げている。以後衛青は七度に渡り匈奴へ遠征しその都度大きな戦果を挙げた。また衛青の甥である霍去病の活躍により、渾邪王が数万の衆と共に投降するという大戦果を挙げた。これにより匈奴は北方への移動を余儀なくされ、漢は新たに獲得した西方に朔方・敦煌などの郡を設け統治を開始した。
また朝鮮の衛氏朝鮮・ベトナムの南越国への征服も実施し、朝鮮には楽浪郡などの四郡を、ベトナムには日南郡を設け新たな直轄領とした。また匈奴対策の一環として張騫を西方に派遣し、烏孫・大宛などとの関係構築を模索し、結果としていわゆるシルクロードの交易路が開け、西方の文物が漢にもたらされるなどの影響を与えている。
しかし相次ぐ軍事行動は財政の悪化をもたらし、また文帝時代から進んでいた商人の伸長とそれによる富の偏在なども深刻な問題となった。これら大富豪たちは後に豪族と呼ばれる存在に成長していくこととなる。
武帝は経済官僚である桑弘羊を登用して塩鉄専売制を開始、また商人に対しては均輸・平準を行い、商工業者に対して新税を設置、国家収入の増大を図った。しかし専売と新税により経済活動に打撃を受けた商人は没落し、貧民たちを指揮して盗賊化した者も発生した。
社会不安に対しては武帝は酷吏と呼ばれる法家系の官僚を登用し、厳格な法治主義で対応した。盗賊を摘発できない、又は摘発件数が少ない地方官僚は死刑とする沈命法を出している。また前106年には郡太守が盗賊や豪族と結託している現状を打破すべく、全国を13州に分割し、州内の郡県の監察官として州刺史職を新設した。
晩年の武帝は不老不死を願い神秘思想に傾倒、それに伴い宮中では巫蠱(ふこ)が流行するようになる。巫蠱とは憎い相手の木の人形を作り、これを土に埋めることで相手を呪殺するものであり、これを行うことは厳禁されていた。それを逆用し、人形を捏造することで対立相手を謀殺することが頻繁に行われた。そして紀元前91年、皇太子であった戻太子が常より対立していた酷吏・江充による策謀により謀反の汚名を着せられ、追い詰められた戻太子は長安で挙兵し、敗死した(巫蠱の乱)。後に戻太子の巫蠱の嫌疑が無実であったことを知った武帝は深く悲しみ、江充一族を誅殺した。皇太子を失った武帝は老齢も重なって気力を減退させ、周辺部への進出はこれ以降は止められた。
武帝時代は漢の絶頂期であったが、同時に様々な問題点が噴出した時代でもあった。
[編集] 霍光と宣帝
巫蠱の乱の後の皇帝の後継者は長期間空白が続いていたが、武帝は崩御の直前に僅か八歳の幼齢である劉弗陵(昭帝)を立太子し、幼帝の補佐として、自らの側近であった霍光・桑弘羊・上官桀・金日磾に後見役を命じた。
前87年に武帝が崩御すると昭帝が即位したが、翌年に後見人の一人である金日磾が死去すると、霍光・上官桀と桑弘羊との主導権争いが発生した。内朝を代表する霍光・上官桀と外朝を代表する桑弘羊との対立は日毎に深刻化し、霍光は桑弘羊を排除すべく全国より集められた賢良・文学と呼ばれる儒学生の後押しをし、桑弘羊主導で行われた専売制・均輸・平準を廃止する建議を出した。これが『塩鉄論』である。しかし経験豊富な経済官僚であった桑弘羊は儒学生の建議を論破しで霍光の計画は一旦失敗した。
その後、桑弘羊も霍光に対抗するために上官桀と接近した。そして昭帝の兄である燕王劉旦と共謀し、霍光を謀殺し、昭帝を廃するクーデターを画策したが失敗、上官桀と桑弘羊の一族は誅殺された[5]。これにより霍光が政権を掌握し、自らの一族を次々と要職に登用し、霍光を中心とした政権運営が行われることとなった。霍光は武帝時代の積極政策を転換し、儒教的な恤民政策に立脚した施策が打ち出した。具体的には租税の免除、匈奴に対する和平策などである。
前74年、昭帝が21歳で早世すると、霍光は劉賀を皇帝に擁立、しかし素行不良を理由として即位後まもなく廃位し、新たに戻太子の孫で、戻太子の死以来市井で生活していた劉病已(宣帝)を皇帝に擁立した。即位した宣帝は自らの立場を理解して霍光を尊重したことで霍光による専権に変化は見られなかった。しかし前68年に霍光が病死すると宣帝は霍一族の権力縮小を図り、遂に前66年に霍一族を族滅させ親政に着手した。
宣帝の政治は基本的に霍光時代の政策を継承した恤民政策であった。全国の地方官に対してこれまでの酷吏のように締め付けるのではなく、教え諭し生活を改善できるように指導させる循吏を多く登用している。その一方で宣帝は酷吏も使用し、豪族に対しては厳しい姿勢で臨んだ。
外征面においては西域に進出し西域都護を設置している。これにより匈奴の勢力は衰退し、前53年には匈奴の呼韓邪単于の漢への入朝を実現している。
これらの功績により宣帝は漢の中興の祖と讃えられる。
[編集] 儒教国家への道
前49年に宣帝が崩御し、劉奭(元帝)が即位した。儒教に傾倒していた元帝は、受け入れられなかったものの太子時代に宣帝に対し儒教重視の政策を提言した経験を有す人物である。そのため即位後は貢禹などの儒家官僚を登用し儒教的政策を推進していくこととなる。
貢禹の建議により宮廷費用の削減・民間への減税、専売制の廃止(その後、すぐに復されている)などの政策が実施された。また貨幣の廃止による現物経済への回帰という極端な政策も立案されたが、これは実現しなかった。貢禹の跡を受けた韋玄成らにより、郊祀制の改革・郡国廟の廃止が決定され、七廟の制が話し合われることになった。(郊祀・郡国廟・七廟などに付いては#祭祀で後述)
元帝の時代は儒教が政策の主導権を掌握し、儒教的イデオロギーが政治を決定するようになった時代である。その一方でこの時代には宦官および外戚の台頭も見られた。
宣帝の信任を受けた宦官の弘恭、石顕は、病弱な元帝に代わって朝政に介入するようになり権力を増大、遂には中書令に就任し政権を掌握した。これに対して前将軍の蕭望之らは宦官の壟断を弾劾する文書を提出したが、宦官勢力により逆に罪に落とされ自殺に追い込まれた。このように専横を振るった石顕であったが成帝の即位と共に失脚している。
前33年、元帝の崩御により劉驁(成帝)が即位する。成帝は政治を省みず、側近を伴って市井で放蕩に耽る好色な皇帝であった。これに代わり実際の政治を行ったのが皇太后である王政君の兄弟の王鳳らであった。王太后は自らの近親を次々と列侯に登用し、その中の一人に王莽が含まれていた。
王鳳死後も王太后の一族が輔政者となったが、その専横と生活態度は翟方進ら儒者官僚たちの激しい反発を招くようになった。その中、王莽は王氏の中で独り謙虚な態度を貫き、儒者を含め多くの支持を獲得するようになっていた。
前7年、突然の成帝の崩御により皇太子である甥の劉欣(哀帝)が即位する。これにより哀帝外戚が王朝内で台頭するようになり、王氏は排斥され王莽も執政者の地位を押されたが、王朝内部からは王莽復帰の嘆願が相次いだ。
哀帝は意に背いた大臣を殺害し、寵臣の董賢を大司馬に昇進させるなど強引な手法で主導権を握ろうとする一方で、吏民の私有できる田地や奴婢の制限を画策し、官制改革に着手するなど積極的な政策を推進したが、前1年に病弱であった哀帝は後継者を残さないままに崩御した。崩御すると王太后と王莽は哀帝より皇帝の印綬を管理していた董賢から印綬を強奪し、元帝末子の子である劉衎(平帝)を即位させることに成功した。
政権を掌握した王莽は絶大な人望を背景に禅譲への準備に着手する。具体的には『周礼』に則り聖人が執政する場所とされる明堂を建築し、また遠国からの進貢といった瑞祥とされる事柄を演出し、王莽こそが聖人であると周りに印象付けようとした。また自らの娘を平帝に娶わせ皇舅となり、安漢公に封ぜられると同時に宰衡という称号を名乗り、九錫を授けられ、臣下として最高の地位に登った。
紀元後5年、平帝が崩御(平帝が王莽のことを恨んでいると分かったため、王莽が毒殺したとも言われる)すると、王莽はわずか二歳の劉嬰を後継者に選ぶ。劉嬰はまだ幼年であることから正式には帝位に就けず、自ら翌年6年に王莽は仮皇帝・摂皇帝として劉嬰の後見となり、更に8年に禅譲を受けた王莽は正式に皇帝に即位、新朝を建てたことで漢は滅亡した。
王莽は儒教色の極めて強い政治を行い、土地・奴婢の売買禁止・貨幣の盛んな改鋳などを行ったが、豪族たちの強い反発を受けて、その政策は失敗に終わり、呂母の乱を切っ掛けに全国に叛乱が多発した。その戦乱の中から劉秀が登場し再び中国を統一、漢が復興された(後漢)。
[編集] 政治
劉邦が咸陽入りした際に、蕭何は秦の法律文書の庫を抑えてその全てを手に入れ、それを参考にして漢の法律を作った。この話が示すように漢の制度はほぼ秦制の踏襲である。そのため秦と漢との連続性を強調した秦漢ないし秦漢帝国の熟語は頻繁に使われる。
[編集] 皇帝
皇帝号はファーストエンペラー・始皇帝に始まり、ラストエンペラー・宣統帝溥儀[7]まで続く。その間、中国において皇帝が存在しなかった時代はなく、名目的には権力は全て皇帝に帰属するものと考えられていた。すなわち「皇帝」の創始は中国史において極めて重大な画期であった。
皇帝とは『史記』「秦始皇本紀」においては三皇五帝の一人の泰皇の皇と五帝の帝を合わせたものとされており、それまでの最高位であった王の上に立つ地位である。このことは郡国制において王を皇帝が支配するということの論理的正当性を与えるものである。
その一方で漢代においては天子の称号も使われている。天子はそのまま天帝の子を示す言葉であり、王の上である皇帝からすれば一段下がる言葉のはずである。王の称号を使っていた周代においても天子の語は使われている。
その間の差はどのようなものであったか、このことを説明する『孝経緯』(『孝経』に対する緯書。緯書に付いては#神秘思想にて後述)には「上に接しては天子と称して、爵をもって天に事え、下に接しては帝王と称して、以って臣下に号令す。」とある。つまり天に対しては天子であり、民衆・臣下に対しては皇帝なのである。
そして、この使い分けは現実の場面においては、国内の臣下に対してと国外の外藩に対しての称号として現れる。国内の臣下(内臣)に対しての文書には「皇帝の玉璽」が押され、国外の外藩(外臣)に対する文書には「天子の玉璽」を押している。
[編集] 官制
漢の官制において、共通する文字は同じ意味を表す。
令は長官を表す。郎中令あるいは県令など。丞は補佐・次官を表す。例えば丞相は皇帝を補佐し、県丞は県の副長官である。史は文書業務を担当する官のこと。尉は軍事関連の官。太尉・中尉など。
漢制においては官僚の等級は二千石・六百石などと表される。この数字は以前は俸禄の数字そのままであったが、漢代においてはあくまで等級を表すものに過ぎない。等級に含まれる主な官は以下の表の通り。このうち、八百石と五百石は前漢末期に廃止。
| 官秩 | 万石 | 中二千石 | 二千石 | 比二千石 | 千石 | 比千石 | 八百石 | 六百石 | 比六百石 | 五百石 | 四百石 | 比四百石 | 三百石 | 比三百石 | 二百石 | 比二百石 | 百石 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 実際の官 | 三公・大将軍 | 九卿 | 郡守・内史など | 郡尉・中郎将など | 三公の丞 | 太中大夫など | 太史令など | 博士・議郎・中郎など | 県丞など | 侍郎など | 郎中など | 県尉など | |||||
| 俸禄[8] | 月350斛 | 180 | 120 | 100 | 90 | 80 | 70 | 60 | 50 | 45 | 40 | 37 | 30 | 27 | 16 |
[編集] 中央
漢の中央官制は三公の下に九卿[9]と呼ばれる諸部署が配置されている。この三公九卿はその役割において大きく二つに分類される。一つは政府の中心として全国を統治するための機関であり、もう一つは国家機関というよりも皇帝とその一族の家政機関としての役割を持つものである。前者に分類されるのは以下のようなものである。
- 丞相→相国(紀元前196年)→左・右丞相(紀元前194年)→丞相(紀元前178年)→大司徒(紀元前1年)
- 民政を中心とした政治の最高職であり、皇帝を助けて万機を総覧する。実際においては朝議を主宰し、その朝議の結果を皇帝に上奏し、認可を得て行政化する。また自らの官衙である丞相府を率いる。その員数は多いときで400近くにまでなった。
- 御史大夫→大司空(紀元前8年)→御史大夫(紀元前5年)→大司空(紀元前1年)
- 御史大夫は丞相を助けるいわば副丞相である。御史府を率い、政策の立案を行い、それを丞相に伝える役割を負う。また属官の御史中丞は官僚の監察を行う。
- 太尉→廃止(紀元前129年)→大司馬(紀元前119年)→大司馬将軍(紀元前119年/大司馬は将軍位に付される称号のようなもの)→大司馬(紀元前8年/将軍位に付かない独立した官位)→大司馬将軍(紀元前5年)→大司馬(紀元前1年/将軍位に付かない独立した官位)
- 太尉は軍事を司る役職である。
- 治粟内吏→大農令(紀元前143年)→大司農(紀元前104年)
- 国家財政を司る。農業の管理、税の徴収および管理、官僚の俸給、経済政策の実施などが管轄である。
- 廷尉→大理(紀元前144年)→廷尉(紀元前135年)→大理(紀元前1年)
- 廷尉は法の執行を司る。全国的な刑罰を行い、地方の郡県の司法官の権限を越える刑罰をも行う。
- 典客→大行令(紀元前144年→大鴻臚(紀元前104年)
- 典属国(紀元前28年に大鴻臚に吸収合併される。)
- 典客は諸侯および地方官らが上京した時の相手を担当し、典属国は外藩の相手を担当する。
これに対して後者(皇帝の家政機関)に分類されるものは以下のようなものである。
- 少府
- 郎中令→光禄勲(紀元前104年)
- 郎中令は主に皇帝の身辺警護を扱い、それ以外の皇帝の身辺に関することも扱う。
- 衛尉→中大夫令(紀元前156年)→衛尉(紀元前142年)
- 中尉→執金吾(紀元前104年)
- 衛尉は宮中警備・防衛、中尉は首都長安の警備・防衛。
- 太僕
- 皇帝の車馬及び軍馬等の管理。30万頭もの馬を養っていたという(『漢官儀』)。
- 宗正→宗伯(4年)
- 皇族(宗室)および外戚に関する全てを扱う。
- 奉常→太常(紀元前144年)
- 奉常は皇帝の祖先祭祀を全て扱う。
このように国家の統治機関と皇帝の家政機関とが並立しているのが漢制の大きな特徴である。そして家政機関の規模は統治機関の規模を上回るものであった。元帝時代に大司農(治粟内史から改称)の扱う金額が年間40億銭に対して、少府とそこから分離した水衡都尉の扱う金額が43億銭であった。
また当時の官僚は全て一旦皇帝の郎官になってから官僚となるのが通例であった。郎官とは皇帝の側近として身辺警護などを勤める役であり、郎中令に属する。郎官は皇帝の身近に侍ることで皇帝との間に私的な繋がりを持つようになる。
このような制度は当時の官僚制が近代的なそれとは違い、未だ皇帝の私的機関としての色彩を濃厚に持つことを示している。
[編集] 地方
詳細は漢代の地方制度を参照
地方制度は基本的には秦の郡県制を受け継ぐが、それと同時に皇族を封建して諸侯王となす並立制を布いた。これを郡国制と呼ぶ。諸侯王に付いては後述。
行政の最大単位は郡であり、その長は守(郡守)である。その属官には次官たる丞、軍事担当の尉がある。郡の下の単位が県であり、その長は一万戸以上の場合は令・万戸以下は長と呼ばれる。その属官は郡と同じく丞と尉である。景帝の紀元前148年に守は太守・郡尉は都尉とそれぞれ改称される。なお辺境においてはこれと若干異なるがそれは#兵制の項で記述する。
武帝時代末期の紀元前106年に全国を13の州に分けて、その中の監視を行う部刺史が創設された。首都周辺は皇帝直属の監察官である司隷校尉が同じ役割を果たした。当時、太守が豪族たちと結託して悪事を働くことが多かったので、その監察を任務として刺史が創設された。当初は太守の秩二千石に対して秩六百石と格の上でもはるかに低く、また一定の治所を持たず、州内を転々としていた。紀元前8年には牧と改称され、名称は牧と刺史の間で何度か変わり、時期は明確には特定できないが、刺史は監察官から州内の行政官としての権力を持つようになった。
ここまでが政府より定められた行政単位であり、その下の単位として郷・亭・里と呼ばれる組織がある。これに付いては#農村・都市を参照。
[編集] 郡国制
郡県と並立する諸侯国に関して。当初の高祖時代には韓信を初めとした戦争で手柄を挙げた功臣たちを封建し、諸侯王とした。しかし高祖はこれら百戦錬磨の功臣たちと自らの皇太子(恵帝)を比べた場合、皇太子はあまりにひ弱に思えた。そこで高祖はこれら異姓の諸侯王たちを粛清して、自らの親族たちを諸侯王に付けて、自らの死後の劉氏政権の安定を図った。
しかし文帝の時代になると藩屏として期待された諸侯王たちには劉氏の本流たる中央の朝廷に対して反抗的な姿勢が目立ち、またこれらの諸侯王の権力・領土があまりにも大きくなりすぎたために中央政権の安定と言う観点からは問題が出てきた。
この頃の諸侯国は中央と同じような自らの朝廷を持ち、そこには丞相・御史大夫などの中央朝廷と同じ名前の官がいた。このうち、丞相のみは中央からの派遣であるが、その他の官は全て諸侯王の任命するところであった。であるから基本的に諸侯国の内政は諸侯王によってなされるものであり、中央もそれに口出しすることは出来なかった。諸侯国の中でも最も大きな呉国は領内に鉄と塩の産地を抱え、民衆に税をかける必要がない程に富んでいたという。これらのことが示すように当時の諸侯国は半独立国であり、中央朝廷からすれば目の上のたんこぶであった。そこで諸侯王の権力を削ることを進言したのが文帝期の賈誼と景帝期の晁錯であり、これに対する反発から呉楚七国の乱が起こった。
乱の終結後、諸侯王の領地における行政権を取り上げて、中央が派遣する官僚に任せ、諸侯王は単に領地から上がる税を受け取るだけの存在へと変え、これにより諸侯王の力は大幅に削られた。しかしその後も中央に対して反抗的な態度に出る諸侯王が絶えなかったために、紀元前127年に諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えて列侯に封建するのを許す「推恩の令」を出した。これは元々賈誼が考えた案に基づくと思われるが、武帝期に主父偃の献策によって実現し、この令により、諸侯王の領地は代を重ねるにつれ細分化されたため、諸侯王が中央政権を揺るがす心配はなくなった。これらの政策によりほぼ郡県制と変わりはなくなった。
[編集] 採用制度
武帝以前からの官吏採用制度は任子制と呼ばれる。ある一定以上の役職にある官吏の子を採用する制度である。
その一方で諸侯王・郡守などが地方の才能・人格に優れた人材を中央に推薦する制度も併せて行われていた。これが武帝期になって郡守の義務とされ、郷挙里選制となる。その推薦する基準には賢良(才能がある)・方正(行いが正しい)・諫言(上の人間に遠慮することなく進言できる)・文学(勉強家である)・孝廉(親に対して孝行であり、廉直である)などがあり、これによって採用された人材を賢良方正と呼ぶ。これら賢良方正は首都長安にある太学と呼ばれる学問所に集められて五経博士による教育を受けて、官僚として巣立っていくことになる。
しかしこの制度はまず初めに有力者の推薦を必要とするので、次第に推薦されるのは豪族の子弟達だけになっていき、豪族が権力を獲得するための道具に利用されるようになっていった。後漢になるとその傾向はますます強まり、宦官と豪族達との争いを引き起こすことになる。
[編集] 兵制
戸籍に登録された男子は23歳から56歳の間の1年間は自分の属する郡の軍の兵士に、もう1年間は中央の衛士とならねばならない。ただし病人・不具・身長六尺二寸(143cm)以下の者は除く。
軍事の最高職は太尉である。しかし帝国すべての軍事権は皇帝に属するものであり、当初の太尉は必要に応じて改廃を繰り返す非常置の職であった。武帝の元狩四年(紀元前119年)に将軍号に冠する一種の称号として大司馬が設置される。この頃に大司馬になった者としては衛青・霍去病の両者があり、その親族の霍光もまた大司馬大将軍として政権を執った。その後、宣帝の地節三年(紀元前67年)に称号ではなく実際の役職となるが、この頃になると外戚の長が大司馬になって政権を執ることが多くなり、大司馬は軍事よりも政治の職となった。
首都長安に置かれる中央軍は中尉が指揮する北軍と衛尉が指揮する南軍とがあった。北軍は長安の北部にその屯所があり、長安周辺の人々が構成員となって長安の防衛・警察に当たった。南軍は地方から衛士としてやってくる人々が構成員となって宮殿の警備に当たった。またこれに加えて皇帝の身辺警護に当たるのが郎中令によって統括される郎官たちである。長安の十二の門には城門候が置かれて警備に当たり、城門候を統括する存在として城門都尉があった。またこれらとは別に屯騎・歩兵・越騎・長水・胡騎・射声・虎賁の七校尉が統括する部隊がある。
地方軍の単位は郡単位であり、統括者は太守である。太守の下で実際に軍事に携わるのが都尉である。通常都尉は郡に一人だけであるが、軍事的に重要な辺境の郡などでは複数おかれる場合があり、これを部都尉と呼ぶ。また太守の軍事面での副官として郡長史が付く。
これらが平時体制である。遠征の際にはこれら軍兵をまとめるための将軍が置かれる。「将、軍にありては君命も受けざるところあり」と言われるように将軍は人事権や懲罰権などその軍に付いてはほぼ全権を持っていた。将軍の最高が大将軍である。大将軍はその他の将軍に対する命令権を持つ特別の将軍である。大将軍の次に位するのが車騎将軍・衛将軍であり、それに加えて票騎将軍が霍去病の活躍により前期の三将軍と同格とされ、この四将軍の位は三公に匹敵した。この次にくるのが左右前後の四将軍である。これに加えて任命される時に名前も同じく付けられる雑号将軍がある。また偏将軍および裨将軍があり、これは独自の軍は率いず、他の将軍の下に入って指揮するものである。
将軍は司令部として幕府を開く。最高の四将軍の幕府には将軍の副官として長史と司馬が付き、それぞれ事務と兵を司る。参謀として従事中郎が二人付き、他に書記官として掾・属・令史・御属が付く。実戦の部隊の最小単位は「屯」でありその長は屯長、屯がいくつか集まって曲になりその長は軍候、曲が集まって部になりその長は校尉、部が集まって全体の軍となる。
[編集] 祭祀
#皇帝の節で説明したように、皇帝は天子でもあり、天帝によって選ばれた存在である。故に皇帝は天帝を祀らねばならない。前漢において、それまで漠然としていた皇帝祭祀が固まり、封禅と郊祀という形になった。
また祖先崇拝を重視する儒教の勢力が強くなったことで皇帝の祖廟の祀り方もまた定式化された。
[編集] 郊祀
郊祀とは首都長安の「郊」外で行う祭「祀」の意味である。祀られる対象は天と地で、長安の南の南郊で天を祀り、北の北郊で地を祀る。それぞれ南郊は冬至、北郊は夏至に行われる。
前漢初期、高祖によって行われていた天帝祭祀は五帝祭祀である。ここでいう五帝とは三皇五帝の五帝ではなく、元々秦において、秦の旧首都である雍において四帝(黄帝・白帝・赤帝・青帝)を祀っていたが、高祖はそれに黒帝を足して五帝の祀りをすることに決めた。この五帝を祀る場所のことを五畤という。
武帝期、天の象徴である天帝を祀りながらそれに対応する地の象徴である后土を祀らないのはおかしいということになり、紀元前113年に汾陰[10]の沢中にて后土を祀ることを決めた。更にそれまで最高神とされていた五帝は本当の最高神である太一の補佐に過ぎないということになり、新たに漢長安城の離宮である甘泉宮にて太一を祀ることに決めた。この時以降、甘泉・汾陰・五畤の三つを一年ごとに順番に回って祀ることにされた。
しかし儒教の勢力が拡大すると共にこのような祀り方は古礼に合わないとして、成帝期の紀元前32年に丞相の匡衡らにより甘泉と汾陰で行うのを止めて、新たに長安の南(南郊。天を祀る)・北(北郊。地を祀る)にて祭祀を行うことに決めた。更に五畤も廃され、南郊と北郊のみが皇帝の祀るところとなった。その後、天災が相次いだことに対して劉向は祭祀制度を改悪したせいだと言い、一旦全てが旧に復された。その後、再度南郊と北郊に戻され、更に戻されるなど動揺が続いたが、最終的に平帝期の5年に王莽により、南郊と北郊を祀ることが決定された。
[編集] 封禅
甘泉宮にて太一を祀ることを決めた直後の紀元前110年、武帝は東方に巡幸に出て、泰山にて封禅の儀を執り行った。
封禅は聖天子以外行うことが出来ないといわれている儀式であり、武帝の祖父の文帝はこの儀式を行うことを臣下から薦められたがこれを退けている。
武帝は国初以来の念願であった対匈奴戦に勝利を収め、自らこそ封禅を行うに相応しいと考え、この儀式を執り行った。この時に儒者に儀式のやり方を尋ねたが始皇帝の時と同じように儒者はこれに答えることが出来ず、結局武帝の共をしたのは霍去病の息子の霍子侯だけだった。そのためこれもまた始皇帝の時と同じくその儀式の内容は判然としない。
このような状態であるため郊祀が毎年の恒例と化していったのに比べ、封禅はその後光武帝が行ったものの特別に行われる秘密の儀式に留まり、中国歴代でもこれを行った者は数えるほどである。
[編集] 廟制
高祖は自らの父である劉太公を祀る廟を作るに当たり、同族である全国の諸侯王にも劉太公の廟を作ることを命じた。これが以後の定式となり、各郡国にそれぞれ劉氏の廟が作られることになった。これを郡国廟と呼ぶ。本来、親の祭祀を行うことが許されるのは大宗(本家)だけ、漢の場合は皇帝の系譜、であり小宗(分家)はこれを祀れないことになっていた。ましてや臣下が皇帝の祖先を祀るなどという郡国廟は本来の礼制からは大きく外れたものであった。高祖が何故このようなことを行ったかといえば、諸侯王および天下万民の間に「我らは一つの家族である」との意識を持たせようとしたと考えられる。その後、儒教の勢力が増すと礼制から外れた郡国廟はやはり問題となり、元帝の紀元前40年に韋玄成らの建議によって郡国廟は廃止された。
また同じく儒教の勢力拡大と共に問題とされたのが七廟の制である。本来の礼制においては天子の祖先を祀る廟は七までに決まっていた。しかし元帝の時点で九[11]になっており、このうちのどれを廃止するかで議論が起こった。この議論は紛糾を続け、最終的に平帝期に王莽によって高祖・文帝・武帝の三者は功績が大なので不変・それに加えて現皇帝の四代前まで(宣帝・元帝・成帝・哀帝)とすることに決められた。
[編集] 元号と暦
史上初の元号は武帝期の紀元前113年に銅鼎が発見されたことからこの年を元鼎4年としたのが始まりとされる。武帝は遡って自らの治世の最初から元号を付けている。この制度は中国では中華人民共和国により廃止されるまで続き、朝鮮・日本など周辺各国でも採用された。
またそれまでの10月を正月としていた顓頊暦に代わって立春を正月とする太初暦を採用した。
[編集] 経済
[編集] 貨幣制度
当時の貨幣単位は銭と金である。銭はそのまま銭一枚のことで、金は金1斤のことであり、大体1万銭に相当する。
敦煌漢簡・居延漢簡の中の文書からある程度当時の物価が推測できる。それによれば、
- 絹一匹(27.65m)=450-477銭
- アワ1石(30kgほど)=105-130
- キビ=150
- 大麦=110
- 麦=120
- 肉1斤(258.24g)=4-7
とある[13]。しかし時期がずれた文書ではアワ1石が3000銭になっているものもあり、当時の相場の変動がかなり激しかったことが分かる。また地域差も激しかったと思われる。
戦国時代においては各国がバラバラに貨幣を発行していたが、始皇帝はこれを銅銭の半両銭(約8g)に統一し、国家だけがこれを鋳造できるとした。漢でもこれを受け継いだが、高祖は民間での貨幣の鋳造を認めたため、実際には半両の銅を使わずに半両銭として流通する悪銭が増えた。
その後、貨幣鋳造の禁止と許可が繰り返され、政府は貨幣の私鋳の防止を試みて三銖・八銖などの銭を発行するが私鋳は止まなかった。そして武帝の紀元前113年に上林三官という部署に新たな五銖銭(約3.5g)を独占的に鋳造させることにした。この五銖銭は偽造が難しく、これ以後私鋳は大幅に減り、五銖銭以外の銭は全て回収され、五銖銭に鋳造された。五銖銭はその後も流通を続け、後漢・魏晋南北朝時代においても引き継がれ、唐で開元通宝が作られる621年まで続いた。
この五銖銭の発行を契機として、それまで急速に発展してきた貨幣経済は衰退に向かう。
[編集] 税制
税の徴収は人頭税・土地税・財産税の3種類に分かれ、更に労働税として兵役と徭役がある。人頭税には16歳から56歳までの男女に付き年間120銭=1算を収める口算と7歳から14歳までの男女に付き20銭を収める口賦がある。財産税は咨算と呼ばれ、財産1万銭に付き年間1算を収める。口算と咨算を合わせて算賦と呼ばれる。また商人は口算を2倍を収めねばならない。農業に対する税は収穫高の30分の1を収めることになっていたが、この税額は極めて薄く、時にこの税は廃止されたこともあるので国家財政の主要な部分は占めていなかったようである。
労働税は年間に決まった期間を労働あるいは周辺防衛に費やすことを義務付けられいたが、300銭を収めることで労働を逃れることが出来た。この銭のことを更賦と呼ぶ。
武帝期になると相次ぐ遠征費用を捻出するために算緍銭(緍は糸偏に昏)と言う税を加えた。これはそれまでの咨算の額を引き上げて、商人には財産2千銭に付き1算(一般民衆の5倍)を手工業者には4千銭に付き1算(一般民衆の2.5倍)を課すものである。またそれとは別に個人が持つ車と船に対する税・算車令と算船令を出し、更に口賦の額を3銭引き上げて23銭とした。
この増税は主に商人が対象であり、#豪族で述べる抑商政策の一環でもある。またこの令には罰則があり、財産を偽って報告した者は財産を没収の上に国境警備へと強制的に回されると言う非常に厳しいものである。この増税策により相当な額が国庫に流れ込み、武帝の政策を支えたが、その一方で破産した商人達は地方の窮迫農民と手を組んで盗賊行為を働くようになり、武帝末期の社会不安の主要素となっている。
[編集] 農業
成帝期に書かれた農書『氾勝之書』には当時生産されていた農産物として、キビ・ムギ・イネ・ヒエ・ダイズ・カラムシ・アサ・ウリ・ヒサゴ・イモ・クワなどを挙げている。
当時の農業技術はどのようなものであっただろうか。戦国時代から鉄制農具と牛耕が普及し始め、大幅な生産力の向上をもたらした。しかし漢代においてはいまだ地方によっては普及していないところも多かったと考えられ、地域による生産力の格差はかなり激しかったと思われる。この時代には苗床が作られず、二毛作もまだ存在しない。
『漢書』には武帝末期の趙過という人が考えた代田法という農法があることを記述している。その具体的な内容に付いては記述が曖昧でどう解釈するかに議論があるが、二頭のウシと三人の人間によって行われるものであったという。しかし民間でウシを二頭持っている者は少なかったのであまり好まれなかった。そこでウシを使わない方法も考案されたという。また『氾勝之書』には区田法という農法が記されている。
牧畜は、一般農民でもブタやニワトリ・イヌなどを飼うことはごく普通に行われており、家畜小屋が併設されていた遺跡も多数発掘されている。ウマやウシの生産はこれとは別に豪族たちの手によって大規模な牧場で行われ、特に遠征が相次いだ武帝期にはウマの生産は奨励されたためにこれで財産を築いたものも多かった。
[編集] 手工業
商業と同じく戦国から秦漢は手工業の発展時期でもある。手工業者は商人と同じく差別された存在であったが、それを物ともしない強い経済力を誇っていた。
この時代においては前述したとおり、一般民の間ではまだ自給自足の風が強く手工業で賄われるのは一般民では作り得ない特別な道具(例えば鉄制農具など)かあるいは王侯貴族たちが使うための品に限られる。
王侯貴族たちが使うための品は主に官営の工場である尚方・考工室・東園匠・織室などが作り、これは全て少府の管轄するところである。尚方では宮中にて使うための武器・装飾品・銅器などが作られ、考工室ではより実用的な武器・漆器・銅器などが作られた。東園匠では貴人の埋葬に使うための棺や明器(埋葬者が死後に使うために置かれる実物を模した土器)などが作られ、織室では儀礼用の織物が作られた。また大司農では農民に支給する鉄制農具が作られた。
民営の手工業として最も大きなものは塩と鉄で専売制実施と共に禁じられはしたが、密売が絶えなかった。これに関しては#専売制で後述。それ以外にも酒や絹織物などは手工業として成立していたと考えられる。
[編集] 専売制
武帝期の紀元前119年に始まった塩鉄専売制は国家財政の非常に重要な位置を占めており、武帝末期には既に必要不可欠のものとなっていた。塩も鉄も製造には厳重な監視が付いており、その産物は全て国家が買い取り、密造は厳罰に処せられた。塩製造を管理する官吏を塩官と呼び、鉄の方は鉄官と呼ぶ。しかし政府の目をかいくぐって密造を続ける者も多く、それらは官製のものに比べればはるかに安価であったので民衆からも喜ばれた。
武帝死後に「民衆と利益を争うのは儒の倫理に反する」として専売制の廃止が話し合われたことがあった。この議論の模様は後に『塩鉄論』という書物に纏められるが、この実態は内朝の代表である霍光が外朝の代表である桑弘羊を追い落とすために画策したものであった。桑弘羊はこれに反論して退けるが、このことは儒教の勢力がそれほどに強くなったことを示してもいる。その後、桑弘羊は別件で殺されるが、霍光政権下でも廃止されることはなかった。
その後の11代元帝期になると儒教の信奉者である元帝の意向により、一時期廃止された。しかし財政が立ち行かなくなることが明らかであり、すぐに戻された。
[編集] 社会
漢代においては皇帝・豪族・小農民の三者が社会の主な構成要素である。このうち、皇帝と小農民の関係が最も重要であり、皇帝および政府はこれら小農民一人一人を個別に支配しようとしていた。これを個別人身的支配と呼ぶ。
[編集] 農村・都市
当時の農民の1戸の家族の平均的な人数は5人で、竪穴式住居に一家同居する者が多かった。一家が所有する耕作地は大体100畝(660a)でここから年間150から200石(4.6tから6.2t)ほどの収穫があった。戸内の者は戸主を筆頭として戸籍に登録され、これを基として課税や徴兵が行われた。
現在見つかっている漢代の竪穴式住居跡は5、6人が同居するのが精一杯の広さであり、次男・三男がいた場合にはいずれは分家する他はないのであるが、分家するほどの財産を一般農民が持つはずもなく、財産は一人だけが受け継ぐのが基本であった。無一文の者たちは国家の官田を耕したり、遊侠になったり、豪族たちの仮作人(小作人)・用心棒になったり、悪い者は奴婢に身を落としたと考えられる。ただしそのような末路が見えている訳であるから最初から子供を一人以上作らない、できたとしても間引きされたという場合も多かったと考えられる。
概ね100戸が纏まって里(100とは必ずしも限らない)となり、その里がいくつか集まった集落は大きさや重要度によって上から県・郷・亭と呼ばれるようになる。[17]
漢以前の戦国時代においては集落は基本的に城塞都市であり、これを邑と呼ぶ。邑は元々は氏族が一纏まりになって生活するものであり、そこからは異姓の者たちは排除された。しかし漢代にはこれが変化して、異姓の者でも受け入れられるようになっていた。集落の周辺は城壁が囲っており、更に内部も里ごとに土塀(閭)で区切られていた。閭には一つ門(閭門)が設けられており、夜間に閭門を抜けることは禁じられていた。農民は朝になると城門を抜けて集落の外に出て、耕作に従事し、日が暮れるとまた門を抜けて集落の中に戻ってくるというサイクルを繰り返す。戦国までは城壁の中にしか居住していなかったが、漢代になると貧しい者は城壁の外に家を構え、より遠くにある田畑まで行く生活をしていた。
集落の中心には社(しゃ)があり、祭礼が行われた。有力者は父老と呼ばれ、纏め役となる。父老の中から県三老・郷三老が選ばれ、それぞれ県・郷の纏め役となった。また大きな集落の中心には市があり、交易が行われ、集落の者が集まる場となった。この市は自然発生的なものではなく、政府により管理されるものである。そのため罪人の処刑も市で行われる。
[編集] 首都長安
漢の長安城は現在の西安市から北西に5kmほど離れた渭水の南岸にあり、渭水の対岸には秦の咸陽城があった。高祖は初めは周の都であった洛陽に都を構えるつもりであったが、婁敬と張良の進言により長安を都とし、その後蕭何によって広壮な宮殿が造られた。1956年より遺跡の発掘が進められている。
漢の長安は唐の長安とは違い、方形ではなく歪な形をしていた。それぞれ城壁は東は5940m・西は4550m・南は6250m・北は5950mある。東西南北に3つずつの計12の門があり、これも夜間には閉じられる。主な建築物として、
- 長楽宮
- 都の東南部にあり、これは基は秦咸陽の離宮であった。高祖はここに住んだが、その後は皇后の住居となった。
- 未央宮
- 西南部にあり、蕭何により建造され、恵帝以後の皇帝の住居となった。
- 北宮
- その名の通り北部にあり、廃された皇后などが住んだ。
- 桂宮
- これも北部にあり、武帝の時に作られた。
また丞相府・御史府などの三公九卿府があったが具体的な位置は不明。北西部には東市と西市があった。
当時の長安城内の人口を宇都宮清吉は10万9421人と推定している[19]。
[編集] 爵制
漢の二十等爵制は秦のものを受け継いでおり、最低の一位・公士から最高の二十位・列侯[21]までの全部で20段階あり、列侯の上に諸侯王があり、更にその上に皇帝がある。
爵位を持っているものはそれと引き換えに免罪特権があり、これを求めて金銭による売買が行われた。
- 公士
- 上造
- 簪裊
- 不更
- 大夫
- 官大夫
- 公大夫
- 公乗
- 五大夫
- 左庶長
- 右庶長
- 左更
- 中更
- 右更
- 少上造
- 大上造
- 駟車庶長
- 大庶長
- 関内侯
- 列侯
漢代においては皇帝の即位や皇太子の元服などの慶事に際して一般民に対しても一律に爵位の授与が行われており、前漢・後漢合わせて200を超えた回数が行われている。このことは年齢が高くなればそれだけ爵位が高くなるということに繋がる。漢が行った爵位の授与は当時崩壊しつつあった「歯位の秩序」、つまりは年長のものが偉いという秩序を「(年齢に応じて高くなる)爵位の秩序」によって再構成し、村落の共同体としての機能を国家が肩代わりし、民衆一人一人に対して漢政府が支配力を及ぼそうとする目的があったとされる。
このうち、七位の公大夫までは民衆でも得ることが出来、九位から上は官吏でなければ得ることは出来ない。官吏は民衆の秩序からは飛び出た存在であり、郷挙里選によって官位を得た豪族が民衆の支配者となれたのもここに一因があると考えられる。
[編集] 豪族
前漢における豪族は後代に比べればまだその勢力は小さい。しかしその存在は大きな社会問題となっていた。
一般農民の住む家は5人が住むのがせいぜいであったが、豪族は2階立て・3階建ての豪邸に数世代の家族が同居していた。また回りを威圧し、盗賊を防ぐために常日頃からゴロツキを用心棒として雇い、家に住ませていた。そして所有する土地に小作人や奴婢を使役して耕作させ、ここから挙がる収益で更に財産を積み重ねていった。小作人はその収穫の1/2から2/3を地主に収め、残りで細々と生活していくことになる。これら豪族は里の父老となっている場合も多く、里の住民たちに命令を下していた。更に選挙で一族の者を官吏となし、更に強い支配力を郷里に対して発揮した。
豪族たちがそのような財産を積み上げたのは戦国時代から貨幣経済が活発化し、それに乗って行った商業が基になっていた。文景の治の時代の平和により、商人たちは富を蓄え、それに伴い富の偏重・農民が商人に転職することが増えたことによる農村人口の減少・中小農民の窮迫など数々の社会問題が表面化してきた。これらの商人は経済力を元に窮迫した農民達から土地を買い取り、農民達を小作農として囲い込み、地方に強い力を持って豪族化して行った。
