Dzisiaj jest czwartek, 04 grudnia 2008 r. 339 dzien roku
Languages:ar | id | bg | ca | ceb | cs | da | de | et | en | es | eo | fr | he | hr | it | ko | lt | hu | nl | ja | no | pl | pt | ru | ro | sk | sl | sr | fi | sv | te | tr | uk | zh






REKLAMA
mp3

ユリシーズ・グラント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ユリシーズ・S・グラント
Ulysses Simpson Grant
ユリシーズ・グラント

アメリカ合衆国18代大統領
任期: 1869年3月4日1877年3月4日
副大統領: スカイラー・コルファクス(1869年 - 73年)
ヘンリー・ウィルソン(1873年 - 75年)

出生: 1822年4月27日
オハイオ州ポイント・プレザント
死去: 1885年7月23日
ニューヨーク州マウント・マクレガー
政党: 共和党
配偶: ジュリア・デント・グラント
サイン:

ユリシーズ・シンプソン・グラントUlysses Simpson Grant, 1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、南北戦争の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。アメリカ史上初の陸軍士官出身の大統領。

軍人としては成功した将軍であるが、彼は多くの歴史家からスキャンダルおよび汚職によってアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。

南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)もっとも有名な将軍の一人である。

目次

[編集] 生い立ち

ヒラム・ユリシーズ・グラントはオハイオ州クレアモント郡ポイント・プレザントでジェシー・R・グラントおよびハンナ・シンプソン・グラントの息子として生まれた。彼の父親およびさらに彼の母親の父親はペンシルバニア州で生まれた。彼の父親は製革業者だった。1823年の秋に一家はオハイオ州ブラウン郡のジョージタウンへ移住した。グラントは17歳になるまでほとんどの時間をそこで過ごした。

17歳のときに彼は、下院議員トーマス・L・ハマーからニューヨーク州ウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校への推薦を受け取った。議員は誤ってユリシーズ・S・グラントとして彼を登録した。彼は1843年に39人中の21番でウェストポイントを卒業した。

グラントは1843年8月22日にジュリア・ボッグズ・デント(1826年 - 1902年)と結婚した。彼らは4人の子供をもうけた。フレデリック・デント、ユリシーズ・シンプソン・ジュニア、エレン・ワレンシャルおよびジェシー・ルート。

[編集] 軍歴

グラントは、ザカリー・テイラー将軍およびウィンフィールド・スコット将軍の配下で米墨戦争に従軍し、ラサカ・デ・ラ・パルマ、パロアルト、モンテレーおよびベラクルスの戦いに参加した。彼は、モリノ・デル・レイの戦いでの功績で中尉に昇進し、チャプルテペクの戦いの後に中佐に昇進した。1854年7月31日に多量飲酒を理由に彼は軍隊を辞職した。辞職後はセントルイスで農場経営、不動産仲介業、そして最後にイリノイで父親の皮革・金物店の経理助手となった。

[編集] 南北戦争

南北戦争において、グラントは最優秀の将軍の1人であり、また最終的に北軍に勝利をもたらした偉大な司令官であった。戦術的な能力だけでなく、戦略家として南北戦争において両軍を通じて最も優秀であったといえよう。優秀な司令官をもたなかったために再選が危うくなったリンカーン大統領を救った一因となったのみならず、その後の切り札となり、前半では西部戦線での攻勢に、後半では東部戦線での大反攻に大きな功績を挙げた。

南北戦争が勃発し、サムター要塞陥落の十日後、1861年4月24日にグラントはイリノイ州スプリングフィールドに彼が募った志願兵を連れて到着した。知事は彼を反抗的な第21イリノイ歩兵連隊の連隊指揮官(大佐)に任命した。その後グラントはハンニバル&セント・ジョセフ鉄道を守るためにミズーリ州に派遣された。この時点ではまだミズーリ州は南部連合と合衆国の間で揺れ動いており、南部に同情的だったクレイボーン・ジャクソン知事は武装中立を宣言して州に侵入する軍隊はどちらのであろうと攻撃すると宣言していた。ミズーリ州に「侵攻」した北軍は8月までにジャクソン知事を免職し、ミズーリ州を支配下に置いた。この行為はミズーリ州内の南部連合派の態度を硬化させ、北軍はこの後しばらく彼らの活動に悩まされることになる。

同年8月、グラントは志願兵の准将に昇進した。下院議員エリフー・ウォッシュバーンの進言にリンカーンが耳を傾けた結果だと言われている。8月末、グラントは西部戦域司令官ジョン・C・フリーモント少将によりハレック将軍の下で南東ミズーリ戦線を任されることとなる。

1862年2月、東部では北軍の苦戦が続く中、西部では河川砲艦と奇襲を組み合わせてヘンリー砦ドネルソン砦を奪取し、西部戦線の東西河川交通の要衝を支配した。これは北軍のミシシッピー河を南下して南部連合の中部と西部を分断する大戦略を可能にした。その後、シャイロー付近で部隊を駐屯中に南軍の奇襲攻撃を受けたが、これの撃退に成功した。上官のハレック将軍は一時グラントの功績を嫉妬したのか、飲酒癖を理由に解任したが、結局のところ彼の能力は捨てがたく、再任されることになる。

10月にはハレック将軍が東部戦線のポトマック軍司令官に召還され、後任としてテネシー軍司令官となった。野戦軍司令官としてポトマック軍司令官に次ぐ重職といえる。グラントは水陸一体の作戦を進めミシシッピ河を南下。1863年4月には南部でのミシシッピ河の重要な渡河点であるヴィックスバーグ要塞を河川砲艦による強行突破と奇襲上陸により包囲体制を築くと、7月3日にこれを陥落させた。これは有名なゲティスバーグの戦いの最終日と同じ日であり、南軍の攻勢の終末点であると同時に、戦略的に南部が東西に分断され西部での北軍の攻勢が完遂した日でもある。11月にはチャタヌーガで南軍を敗退させ、西部にいて南軍が組織的反撃を行う能力をほぼ喪失させた。

リンカーン大統領にとって首都防衛と敵攻略を兼ねるポトマック軍の司令官に人材を得ないのが最大の悩みであり、師団長クラスでは優秀な戦術家であっても司令官となるととたんに弱点を露呈する将軍が多く、マクダウェル、マクレラン、フッカー、バーンサイド、ハレックとことごとく期待を裏切っており、ゲティスバーグでリーを撃退したミードもこの任に長く耐えられそうもなかった。そのため、西部で南軍を切り裂いたグラントに白羽の矢が立てらることになる。

1864年3月、ミードはそのままポトマック軍司令官に留任し、その上級司令官の形でグラントが北軍総司令官に任命され、主に東部戦線の指揮をとった。

西部戦線の後任にはグラントの盟友でかつ忠実な部下であったウィリアム・シャーマン将軍がテネシー軍司令官となり、アトランタを抜けてサヴァナへの海への進撃を行い、南軍の戦争遂行能力をずたずたに引き裂いた。

一方でグラントは人口と工業生産力にまさる北軍の国力を背景に、東部では物量による不屈の南下作戦を開始し、常にリーを相手に大損害を受けながらリッチモンドへ進撃を開始。ウィルダネスの戦い、スポットシルヴェニアの戦い、コールドハーバーの戦いと全てリーの南軍は寡兵ながら自軍以上の損害を与え続けたものの、消耗戦に巻き込まれた形になり、また迂回と突破、そして海上移動を使い分けるグラントに徐々に押し込められていった。グラントは南部連合首都のリッチモンドの裏口にあたるピーターズバーグに海路押し寄せ、リーは事前に察知して先回りし塹壕線を築くが、結果的に野戦軍がリッチモンド及びピーターズバーグに押し込められる形になり、戦略的包囲に成功した。そのため、南軍はアトランタから大西洋へ抜けようとするシャーマンに対して救援が送れず、シャーマンはやがてサヴァナから北上してさらに両カロライナとヴァージニアを焼き尽くしながらグラントに合流する。これにより、南軍は降伏し、グラントは南北戦争における英雄となった。

戦争後に連邦議会は、1866年7月25日に陸軍元帥の階級を新しく作成して彼を任命し、その労をねぎらった。

[編集] インディアン政策

熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であった。が、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。

1860年代後半から、知人であったインディアンイロクォイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」、「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けもインディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。

このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。

和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を(武力を背景に無理矢理)結んていったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しなかった。

西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。

[編集] 大統領職

グラントメモリアルの立像。妻のジュリアはポケットに手を入れた仕草が夫をよく表していると語った。

グラントは1868年5月20日にシカゴの共和党全国大会で満場一致で共和党大統領候補に選ばれた。その年の大統領選では、合計5,716,082の投票中3,012,833(52.7%)を得票し勝利した。特に黒人の支持票が多かった。

グラントの大統領職は、汚職とスキャンダルに悩まされた。特に連邦政府の税金から300万ドル以上が不正に得られたとされるウイスキー汚職事件。個人補佐官オービル・E・バブコックは不正行為に関与したとして起訴され、大統領の恩赦で有罪判決を回避した。ウイスキー汚職事件後に、陸軍省長官ウィリアム・E・ベルナップがアメリカインディアンとの販売・取引ポストと交換に賄賂を受けとったことが調査によって明らかになった。グラント自身が部下の不正行為から利益を得たという証拠がないが、彼は犯罪者に対する厳しいスタンスをとらず、彼らの罪が確定した後さえ、強く反応しなかった。

荒廃した南部の再建および先住民対策に失敗し、支持が急落した。

1872年3月3日には、アメリカを訪問した岩倉使節団と会見した。その際使節団に対し、キリスト教禁教を続ける明治政府の政策を激しく非難した。

[編集] 内閣

職名 氏名 任期
大統領 ユリシーズ・グラント 1869 - 1877
副大統領 スカイラー・コルファクス 1869 - 1873
  ヘンリー・ウィルソン 1873 - 1875
国務長官 エリフ・B・ウォッシュバーン 1869
  ハミルトン・フィッシュ 1869 - 1877
財務長官 ジョージ・バウトウェル 1869 - 1873
  ウィリアム・リチャードソン 1873 - 1874
  ベンジャミン・ブリストウ 1874 - 1876
  ロト・モリル 1876 - 1877
陸軍長官 ジョン・アーロン・ローリンズ 1869
  ウィリアム・シャーマン 1869
  ウィリアム・ワース・ベルナップ 1869 - 1876
  アルフォンソ・タフト 1876
  ジェイムズ・ドナルド・キャメロン 1876 - 1877
司法長官 エベニーザー・ロックウッド・ホアー 1869 - 1870
  エイモス・タッペン・アケルマン 1870 - 1871
  ジョージ・ヘンリー・ウィリアムズ 1871 - 1875
  エドワーズ・ピアポント 1875 - 1876
  アルフォンソ・タフト 1876 - 1877
郵政長官 ジョン・クレスウェル 1869 - 1874
  ジェイムズ・ウィリアム・マーシャル 1874
  マーシャル・ジュウェル 1874 - 1876
  ジェイムズ・ノウブル・タイナー 1876 - 1877
海軍長官 アドルフ・ボリー 1869
  ジョージ・ロブソン 1869 - 1877
内務長官 ジェイコブ・ドルソン・コックス 1869 - 1870
  コロンバス・デラノ 1870 - 1875
  ザカリア・チャンドラー 1875 - 1877


[編集] 大統領職後

グラントが描かれた50ドル紙幣。(Series 2004)

大統領職二期目の終了後に、グラントは二年間世界中を旅行した。最初の訪問地はイギリスで、1877年のことだった。

1879年6月には日本を訪れた。グラントは、アメリカ合衆国大統領経験者で、訪日を果たした初の人物でもある。浜離宮明治天皇と会見した。増上寺で松を植樹、上野公園で檜を植樹した。

グラントは1883年全米ライフル協会の第8代会長に選ばれた。

1884年、グラント・アンド・ウォード商会の倒産後の負債で金銭的に困窮し回想録を執筆したが、すでに末期の喉頭癌で回想録が完成したのは死の数日前だった。回想録はベストセラーとなり、妻子に快適な収入を与えることとなった。彼は1885年7月23日にニューヨーク州サラトガ郡のマウント・マクレガーで死去した。彼は北アメリカで最大の廟、ニューヨーク市のグラント墓地に、妻と共に埋葬されている。

グラントの肖像は50ドル紙幣に採用された。

[編集] 関連項目

[編集] 参考文献

  • グラント『自著 克蘭徳一代記 前編』山本正彦訳(高橋平三郎、1888年)

[編集] 外部リンク


先代:
ヘンリー・ホーレック
アメリカ陸軍総司令官
1864年3月9日 - 1869年3月4日
次代:
ウィリアム・シャーマン
先代:
アンドリュー・ジョンソン
アメリカ合衆国大統領
1869年3月4日 - 1877年3月4日
次代:
ラザフォード・ヘイズ


Polska, Dolar, Forex


Wikipedia jest zarejestrowanym znakiem towarowym Wikimedia Foundation
Wszystkie materiay pochodz z Wikipedii, obite s licencj GNU Free Documentation License